DON脳寺の変 第10話
「…はぁぁ…」
テーブルの上に顔を突っ伏す。
「…今日も…、…ダメだぁ…。…全然、契約が取れないぃぃぃぃ…!!」
今にも泣きそうな表情で、雉野が呟くようにぶつぶつと独り言を言った。
どこかの街の、どこかの閑静な住宅街。その隣りの家との塀に囲まれた一角、いわゆる、どん突き。そこにある1軒の喫茶店「どんぶら」。淹れたてのコーヒーの匂いが漂う落ち着いた雰囲気のその喫茶店に、雉野は今日も来ていた。
「ちょっとッ、雉野さんッ!!」
コーヒーを運んで来たはるかが眉間に皺を寄せ、いかにも迷惑ですと言った表情で雉野に声を掛けた。だが雉野は、
「…んあ?」
と変な声を上げたまま、微動だにしない。
「ここッ、喫茶店ですけどッ!!雉野さんの自宅じゃないんですけどッ!!テーブルに顔を突っ伏すの、止めてもらえますかッ!?」
「…そぉんなぁ…」
「そんなぁ、じゃないッ!!」
「まぁ、確かにな」
少し離れたところで、翼が声を上げた。
「他の客もいるようなところだ。そこで自宅のように振る舞うのもどうかと思うんだがな…」
「って言うか、指名手配犯が声を上げていいのか、って言う問題もあると思うんですけど…!!」
はるかがぼそぼそと呟くように言ったその瞬間、
「…ッッッッ!!!!」
と、はるかの言葉が聞こえたのか、翼は周りをきょろきょろと見回し、ロングコートの襟で咄嗟に顔を隠した。
「いやいや、全っ然、隠れてないし…!!」
「では、ここで一句!!」
今度は猿原が立ち上がると、いつものように右人差し指をピンと立てた。
「コーヒーの 匂いにつられし 春の虫…」
「「ちょっと待ったああああッッッッ!!!!」」
猿原が呼んだ句を聞いた瞬間、雉野と翼が耳聡く反応し、一斉に立ち上がった。そして、猿原のもとへズカズカと歩み寄ると、
「おいッ、サルッ!!今、何つった!?」
と、翼が食ってかかれば、
「そッ、そうですよッ!!僕達のことを虫扱いなんかして…!!」
と、雉野が憮然として言う。だが、猿原はあくまでも冷静に、
「いやいや。私はただ、このお店の入口から入って来るハエなどの小さな虫のことを詠んだまでのことだが?」
と言ったのだ。
その時だった。
「って、呑気に句を詠んでいる場合ですかああああああああッッッッッッッッ!!!!!!!!」
はるかが大声を上げ、
「マスターッ!!殺虫剤ッ、どこですかああああッッッッ!!!?」
と、カウンターの後ろで眠そうな表情を浮かべている五色田介人に声を掛けた。だが、介人はちらりとはるかを見ると、
「…ないよ…」
と言ったのだ。
「…え?」
「…殺虫剤…、…ないよ…」
「…ええええッッッッ!!!?」
はるかが大声を上げる。すると雉野が、
「…ま、…まぁ、いいじゃない、はるかちゃん。ハエの1匹や2匹…」
と言うと、
「良くありませんッッッッ!!!!」
とはるかが言う。
「万が一、お客様のコーヒーカップの淵にハエが止まったらどうするんですかッ!?衛生的にも良くないでしょうッ!?」
「おいッ、雉野ッ!!話の方向をずらすなッ!!」
「って言うか、翼さんもいつまで怒ってるんですかッ!?猿原さんは別にあなたや雉野さんのことを虫けら扱いしたわけじゃないんだし…」
「…は、…はるかちゃん…。…虫けら…って…」
「…フフッ!!」
雉野が泣きそうな声を上げれば、猿原はニッコリと微笑んでいる。
その時だった。
バシッ!!
何かを掴むような音が聞こえ、4人は思わずその方向を見やった。
「…あ…」
「…これはこれは…」
「…桃井…、…さん…」
「…げ…ッ!?」
4人が一様に反応を示す。そこには、紺色と赤を基調とした制服に身を包んだ桃井タロウがいた。そして、その右拳が握られ、真っ直ぐに突き出されている。
「…ま、…まさか、桃井さん…?」
「…ああ…」
すると、桃井はゆっくりと店の入口へ向かって歩き出すと、そのまま外へ出た。そして、そこで握っていた拳を開いたのだ。
「…あ…」
「…これはこれは…」
「…ハ…、…ハエが…」
「…飛んでった…」
「…オレは、虫を殺せない。虫だって生きているのだから…」
「…そッ、…そうかもしれないですけど…!!」
はるかが言いかけると、タロウは、
「そもそも、店の入口を開け放しておく方がいけないんだ。虫だけじゃなく、もしかしたら、犬や猫も飛び込んで来るかもしれない。そっちの方が、衛生的にもっと良くない」
と、はるかの言葉を遮るように言い、店の入口を閉めた。そして、ツカツカと介人のもとへ行き、
「マスター、いいですよね?」
と尋ねた。すると介人は、ちらりとタロウを見ると、
「…いいよ…」
と短く答えた。
「でッ、でもッ、換気が…」
「換気なら換気扇で十分だ。それでもと言うのなら、この空間のあちこちにサーキュラーを置き、空気を循環させればいいだけのこと。換気対策など、入口を開け放さなくても十分に出来る!!」
「…って言うか、ここッ、喫茶店なんですけどッ!!」
はるかがプリプリしながら言う。
「何でみんながここに集まって来るんですかッ!?ここッ、寄り合い所でも何でもないんですよッ!?」
「まぁまぁ、いいじゃない、はるかちゃん」
雉野がはるかを取り成そうとする。すると、
「…俺はここのコーヒーが飲みたいから来ているんだがな…」
と翼が言うと、
「私も同じだ」
と猿原が言った。
「みんな、縁があるな!!」
タロウが静かに笑みを浮かべて言う。
「ここでこうやってみんなで集まる。同じ目的を持つ者達が集まる。これほど不思議な縁で繋がっている者はいない」
「同じ目的って、コーヒーを飲むことでしょうが」
「それだけじゃない!!」
はるかがぼそぼそと呟くように言ったのに、タロウはちゃんとそれを聞いていた。
「ヒトツ鬼になった者達を、オレ達は救うと言う目的がある!!」
「…あ、…そっちっすか…」
眉間に皺を寄せたり、怪訝そうな顔をしたり、うんざりと言う顔をしたり。今日のはるかはなかなか忙しい。
「人間が欲望を大きくさせる限り、鬼が取り憑き、暴走した者はヒトツ鬼になる。その鬼を救うのが、オレ達の使命だ!!」
「…」
その言葉に、雉野が顔を強張らせる。いや、それは雉野だけではなかった。
「…」
翼も、タロウの言葉を聞きながら複雑な表情を浮かべていたのだ。
「…?」
そんな2人の表情に、猿原は異変を察知していたのだった。